伝え続ける。3,11

東日本大震災から10年が経とうとしています。

10年という月日が長いのか、短いのかはわかりません。

遺族の方は、まだまだ昨日のことのようなお気持ちなのではないでしょうか・・・。

 

 

当時、私は川崎の小さい乳児専門の保育園で、園長代理をしていました。

0,1,2歳児の子たち、30数名で、生後48日の子から預かるような保育園でした。

 

忘れることができない日になってしまった、3月11日の日、この日はみんなお昼寝から起きるのが早かったので、

15時からのおやつを少し早めて、14時 45分にはおやつ準備が終わり、部屋の電気をつけた途端に揺れと同時に停電。その後も何度も来る地震、幸い子供たちは小さすぎて地震の怖さも分からずに落ち着いてくれていましたが、少し年配のパートの方がパニック状態で、泣き喚いてしまい、子どもも見れない情態になってしまいました。ご自宅が近かったので、同じ方向の年配のパートさんに送ってもらう様にして二人を返し、若い社員の先生たちと残る様にしましたが、実際この時私たちは、情報が入ってこなくて、大きな地震があった認識しかありませんでした。

幸い建物自体はしっかりしていたのですが、ライフラインが一切止まり、水道、電気、ガスが止まってしまいました。

15時半くらいから自営業のご父兄や、近くの祖父母の方達が迎えに来てくれて、その時に初めて、東北でのひどい地震の状態を知りました。この時のご父兄の方々が本当に良い方達ばかりで、ライフラインが止まってしまったことを知ると、

  • ポットにお湯を入れて、赤ちやん用のミルクにと持ってきてくれた方。
  • 自宅のワゴン車を提供してくれて保育園のそばで赤ちゃんたちの小さな子を乗せて暖をとらせて泣かさせてくれた方。
  • お迎えに来てくれた父兄が隣の家の子も一緒に連れて帰ろうかと言ってくれたこと(流石にこれはご丁寧にお断りしました。)
  • 電車などが止まり、ご父兄の皆さんも、1,2,時間かけて歩いて帰ってこられる中、コンビニなどでお菓子や、おにぎり、電池、カイロなどを買ってきてくださり、「先生たち、お腹すいたでしょう。こんなのしかないけど食べてください。」という気遣いをいただいたこと。
  • 午前中のパートの先生のご主人が、保育園真っ暗だった聞いて、お米を炊いて、おにぎりやお茶などの差し入れを持ってきてくれたり、お休みだった職員が自分お車を出してくださり、連絡が取れたご家族で家の祖父母がいる方に子供を送っていっていってくれたり・・・。

本当にいろいろなことがあり、2度と体験したくないけれど、人間の暖かさを一番感じた日にもなりました。

今の保育園の職員の中で、東日本大震災の時の現場で働いていた人は私しかいません。

現場での避難訓練は毎月行なっています。保護者への引き取り訓練も年に一度は行っていますが、災害時に避難した後での子供を引き渡す時の訓練なども念頭におくように一緒に働く先生には伝えています。

あの時、真っ暗な部屋の中で、懐中電灯や、蝋燭の明かりの中で、子供たちと、影絵遊びや、手遊び歌、素話などで、子供達と過ごしました。

後最後の一人が帰るまで、ポットのお湯や、麦茶を捨てないことと、避難食の中にアレルギー食も用意する様にしています。

 

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